森鷗外はいつ、なぜ小倉に来たの?

森鷗外は第12師団軍医部長に任命され、明治32(1899)年小倉に来ました。陸軍の階級は大佐格から少将格に昇進していました。当時小倉は人口わずか3万人の田舎町でした。小倉市になったのは、鷗外が小倉に来た翌年のことです。最初「左遷人事だ!」と憤慨しました。数年後にはロシアとの戦争が予想され、小倉師団は戦場に一番先に飛び出す重要な師団でした。軍人の衛生管理はもちろん、微兵検査で北部九州の各県をめぐり大変忙しく勤務に励んでいます。

小倉で何を翻訳したの?

小倉に来た2年後の明治34年に、アンデルセンの『即興詩人』の翻訳を完成させました。続いて『審美極致論』など芸術論、さらにはクラウゼヴィッツの軍事哲学書『戦争論』を翻訳しています。これらの本は、すべてドイツ語の原文から直接翻訳したものです。
鷗外は驚くほど多くの西洋文学書を美しい日本語に翻訳しています。当時の若者は鷗外訳の『即興詩人』をポケットにしのばせて、イタリアを旅行したそうです。『戦争論』を一字一句まで正確に翻訳しました。日露戦争にこの翻訳が必要だったのです。

小倉は舞台にした小説は?

小倉を去って7年後から雑誌『スバル』などに小説を発表しました。『鶏(明治42年)』、『独身(明治43年)』、『二人の友(大正4年)』の3編で、小倉三部作といわれています。『鶏』は石田小介少佐参謀が飼った鶏をめぐる事件は描き、『独身』は3人の独身男性とお手伝いにかかわるエピソードをつづっています。『二人の友』は友人のドイツ語学者・福間博と安国寺住職・玉水俊虠がモデルです。いずれもユーモラスで、ほのぼのとした味わい深い短編小説です。三部作を読むと、明治後期の小倉の様子と、そこで快適に暮らす鷗外の姿がほうふつとしてきます。

当時の小倉市民に与えた影響は?

軍医(官僚)と作家の二足のわらじをはく鷗外は、小倉でもその姿勢をつらぬきます。新聞6紙、雑誌6誌に寄稿し、市民講座を開き、講演も7回おこなっています。アンデルセン『即興詩人』を訳了し、のちに刊行しています。鷗外が書いた評論、随筆や講演会で語った内容は、専門性が高かったにもかかわらず、市民は熱心に読み、聴きました。倫理学の講演会に1千人を超える市民が詰めかけたほどです。教育者や実業家、マスコミ界に及ぼした影響は計り知れません。

森鷗外が小倉で在任中住んだ場所は?

明治32(1899)年6月19日、小倉師団に着任した鷗外は、室町の達見旅館で旅装を解き、同月24日小倉町大字鍛冶町87番地(現鍛冶町1丁目7番2号)の住宅に入居しました。ここでの生活は、小説『鶏』に鮮やかです。昭和57年、北九州市はこの住宅を取得・修復し、「森鷗外旧居」として公開しています。明治33年12月24日、小倉市京町5丁目154番地へ転居しました。現在の小倉駅前広場南西の角で、「森鷗外京町住居跡碑」と記した石碑と副碑のある場所です。小説『独身』の舞台で、志げ夫人と短くも楽しい新婚生活をおくりました。
京町住居跡碑(小倉駅前)

森鷗外が小倉で訪れた史跡や散歩道は?

『小倉日記』によると鷗外は、明治32年9月10日に小倉の篠崎八幡宮の神官川江直種を訪ね、郷土の歴史や地誌について聞いています。歴史好きの鷗外は延命寺にある宮本武蔵の碑を3回訪れ、碑文に写しました。翌年の大晦日、初めて安国寺に玉水俊虠を訪ねています。そのことは『二人の友』や『独身』に描かれています。広寿山福聚寺を志げ夫人と訪れたのは、明治35年2月23日。境内の扁額や即非像も様子が日記に記され、和歌も詠んでいます。日課としていた小一時間程の散歩の様子は『鶏』に詳しく、長浜の盆踊りの様子も描かれています。
武蔵顕彰碑「小倉碑文」(小倉北区手向山公園)

『二人の友』との交友関係は?

明治32(1899)年10月12日、同郷の青年、福間博が来訪し、「ドイツ文学のうん蓄を授けよ」と言うので毎日1時間、ドイツ語を教えました。その後福間博は山口高校、旧制第一高等学校の教授になりますが、37歳の若さで亡くなっています。明治33年11月23日、小倉の安国寺住職玉水俊虠が鷗外のもとを訪れ、鷗外は『小倉安国寺の記』『小倉安国寺古家の記』を発表。鷗外がドイツ語・ドイツ哲学を、俊虠が唯識論をお互いに教授しあいました。俊虠が鷗外を追って上京する程親交を深めました。この福間博と玉水俊虠の二人が小説『二人の友』のモデルとなっています。
安国寺(小倉北区堅町1丁目2-13)

「廿一会(にじゅういちかい)」って?

鷗外が第一師団軍医部長として栄転し、明治35(1902)年3月21日、民間有志23人による送別会が三樹亭で行われ、玉水俊虠が「余裕の説」を演説しました。門司新法は「鷗外森博士の送別会」と詳報しました。小倉高等女学校長杉山貞らはこの日を期に翌月から「廿一会」を発足させ、明治末年まで続き「啓明会」に継承され、小倉に文化的土壌が醸成されました。帰京の折、小倉駅の見送り人は1,000人に及びました。

森鷗外を最初に顕彰した田上耕作とは?

田上耕作は、昭和13(1938)年2月26日に「森鷗外居住の趾」の標木を現在の旧居がある場所に建てました。また、鷗外の事跡を調査して発表するなど、小倉で初めて鷗外の顕彰をしました。松本清張の芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」の主人公として有名です。実在の田上耕作は明治33年4月24日、門司市に生まれ、小倉市博労町に住み、小倉高等小学校から豊国中学に進みました。郷土史家として雑誌『福岡』59号に「鷗外漁史の小倉観-広告塔と伝便」を執筆しています。昭和20年6月29日に門司空襲で死去しました。
田上耕作
『ふるさとの思い出写真集』明治大正昭和 小倉(国書刊行会)

記念館はどこにあるの?

生誕地の津和野、留学先のベルリン、終焉の地文京区の3か所です。
◆津和野町の森鴎外記念館は、旧宅の隣にあります。
〒699-5611 島根県津和野町町田イ238
◆ベルリン森鷗外記念館は、ドイツ留学中に下宿した建物が記念館として残され、森鷗外や日本文化の研究・紹介をしています。
10117 ベルリン ルイーゼン通り39
◆文京区立森鷗外記念館は、30歳から亡くなるまで過ごした「観潮楼」の跡に、平成24年11月1日に開館しました。鷗外の遺品を中心に展示し、顕彰や研究・交流の場、情報発信の基地になっています。
〒113-0022 東京都文京区千駄木1-23-4